ギャンブラー

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ダニエル・チェン

無造作に積まれた赤、緑、青、黄色のマカロンの山の上で、ブヨが一匹、必死にマカロンの一つにかぶりついた。ブヨの苦労も虚しく、マカロンはびくともしなかった。気がつくと周りは渦巻く灰色の煙に包まれ、ブヨの意識も次第に朦朧となるものの、ブヨ特有の双翅目のおかげで、カラフルな山が緑色のテーブルの上で激しく崩れ落ちる寸前、ブヨは運良く空中へ逃げ切ることができた。安全な天井の隅っこで、ブヨは自分が巻き込まれるところであった恐ろしい下の世界を観察した。

そこではギャンブラーの一人が、まるでそれが汚らわしいものかのように、クシャクシャになったトランプカードを乱暴にチップの山の上へ放り投げた。こぼれ落ちる不安定な笑い声と引きつった表情が、平然を必死に装うとする彼を裏切る。

彼はまだ知らないが、彼はこの後ゲームを一つ勝ち取り、今ある絶望感は瞬く間に達成感と爽快感に変貌することになる。このように、夜が終わるまでに彼の感情は、ジェットコースターのような激しい浮き沈みを経験することになるのだ。また、カジノの施設内には窓がなく、柔らかい照明の光で暖かく照らされた室内では時間空間の感覚が完全にゆがんでしまう。ここにいる多くの人にとっては昼も夜も関係なく、従って彼らの夜が終わることもない。この世界ではカジノテーブルという重心が客達を引き込んで行く。

そしてギャンブラーは皆、最後は尾を引いて弱り果ててカジノを後にするのだ。たとえ、今回ギャンブラーが運良く勝利したとしても、カジノ場は何ら心配がない。なぜなら、次にギャンブラーがカジノ場に戻れば、前回勝ちとったお金は、必ずカジノに全て返ってくるように出来ているからだ。「カジノで勝つのは結局カジノだ」という法則は、相対性理論と同じくらい確実であり、数字で編み出された科学的根拠のあるものだ。数字は嘘をつかない。

それでもギャンブルにハマってしまうギャンブラーの行動は、アルコール、薬物、ニコチン中毒者の特徴と全く同じものだ。これらの依存物は、脳内のタンパク質を刺激することで、シナプスを通して大量のドーパミンが送り出され、脳を一気に快楽のオーバードライブにしてしまうのだ。

また驚くことに、極端なストレスもドーパミンに同じような影響を与えることが、近年の心理学および神経科学の研究で明らかになっている。脳の快感神経伝達物質であるドーパミンは、楽しい経験だけでなく、ストレスの多い出来事を経験した時にも活性化されるのだ。したがって、薬物中毒者は薬物で快楽を経験しているときだけでなく、辛い禁断症状のストレスもが中毒に貢献しているように、ギャンブル中毒者もまた、勝利と敗北、極端な二つの感情が脳を刺激することによって、依存から抜け出す事を難しくしているのだ。そして継続的な極端な感情は脳の報酬回路を混乱させてしまい、飲食、性、他の人間とのコミュニケーションなどの通常の報酬では満足できなくなってしまう。

また、人間が皆同じように作られていないことも事実であり、中には産まれながらにして中毒症状になりやすい傾向を持つ人もいる。中毒や依存症は家族的要因が大きく、家族や親戚に何らか中毒や依存症を持つ人は同様の症状に陥りやすいということが証明されている。もちろん、文字通りの「ギャンブル遺伝子」は存在しないにしても、もしもそのような遺伝子が実在するのであれば、それはアジア人に集中していることだろう。

また、依存症と遺伝の関係だけでなく、環境や文化の影響もあることを忘れてはいけない。私たちは長い間、極端な行動、痛み、暴力などを魅力的に捉え、映し出してしまう世の中に生きてきた。反ヒーローは称賛され、散文や画面上の世界で語り継がれることによって彼らは不朽の存在となる。「一見悪そうに見えるけど、根は優しい男の子」、「ちょっと尖ったキャラだけど、みんなの心を掴んでしまう」ようなキャラクターは、ハン・ソロ、マッド・マックス、市民ケーン、マイケル・コルレオーネ、ランボーと、名乗り始めるとキリがない。

この中にはもちろん、ギャンブラーもいる。映画「マーベリック」の主人公、とんでもなくズル賢いギャンブラーのジェームズ・ガーナーを、魅力的だと思わない人はいないのではなか。そして、ギャンブルをするアジア人の誰しもが、自分のことを「ゴッド・ギャンブラー」三部作の天才カジノプレイヤー、チャウ・ユン・ファットだと思い込んでいる。もともと中毒傾向にあるものが、このような環境の中で育ってしまえば、彼は中毒者になっても自らの歪んだ道徳心を十分に正当化することができるのではないか。

どんなに厳しく取り締まってもギャンブルが無くならないのであれば、せめて合法的に管理できるよう、政府機関がパリミューチエルやその他のチャンスゲームを運営していることも珍しくない。そうすることで、国は違法な民間事業者を抑止するだけでなく、ギャンブル欲を合法的に鬱憤する手段で利益が儲けられ、収益を慈善活動や地域コミュニティのために使用することもできる。けれども、この「打ち負かすことができなければそれに従え」というような理窟は、大麻やポルノの合法化を推進する際に使われるものと全く同じだ。政府がこのような姿勢をとるということは、危険物がより身近になることを意味し、そのような社会は脆弱な人々にはかなり危険だ。

これに対し、政府が選んだ救済策は、リスクの高いセグメントに何かしらの予防対策を講じることだ。その一方で、学会や業界の有識者達の中では、予防や阻止よりギャンブルの危険性について適切な教育や知識を提供する方が継続的な解決策になるという見解が一般的だ。いずれの考え方も仮説を裏付ける統計データと研究結果があるが、そのほとんどは特定の文化圏や民族に焦点をおいたものであり、普遍的な説としての根拠は弱い。当然、カジノ・オペレーターは後者の案を好む。教育や知識は予防対策のように顧客層が減軽される心配が無いことに加え、ギャンブルの責任を顧客にも負わせることができるからだ。

これまで述べたことの全てが貢献し、ここ10年の間に誕生したのがアジアの統合リゾート施設だ。当初から統合リゾートは観光産業の万能薬として歓迎され、シンガポールでの成功以来、その魅力は業界内で大きな話題となっている。何千もの雇用を生み、観光業を復活させ、カジノ税は多額な収益を国にもたらす統合リゾートは、その豊富な効能力から、経済的な傷に効くタイガー・バームのように称賛されている。とはいえ、華々しいパリのキャットウォークでも拒食症や過食症という苦痛な現実が舞台裏に隠れているように、統合リゾートもまた、煌びやかなファサードの裏には過酷な現実があるものだ。確かに、統合リゾートは輝かしい約束を全て実現してくれる。しかし、私たちは統合リゾートの主要経済的価値がカジノであることを忘れてはいけない。

しかしながら、うますぎる話には何らかの「キャッチ」が必ず隠れているものだ。「テレビは見ていいけど、宿題が終わってからね!」や、「今ならXXが無料!(ただしXXX円以上のお会計に限定)」、「延期金利プラン対象(高額な実効金利で)」だとか、私たちは幼い頃からキャッチが潜む謳い文句に慣れてしまっている。そして、「統合リゾートを開発すれば、数億ドルの利益が得られる(利益の大半はカジノの売り上げからくる)」も、このような謳い文句の一つだ。

煌びやかなカジノでギャンブルを楽しむ人々はまるで、水面こそはキラキラと光っているものの、水面下では鋭いフックと捕獲ネットが溢れかえる海の中で泳ぐ小さなプランクトンのようだ。人生そのものが大きなギャンブルだとしたら、ギャンブルにハマってしまう者は、非常に悪いカードを配られてしまった。まるで神様がギャンブラーに対して何らかの陰謀を企てているかのようだ。そして、悪いカードを配られたものがカードを伏せてゲームを辞退するように、ギャンブル中毒というカードを配られ滅茶苦茶になってしまった人生のゲームを、最悪の場合、自殺という形で辞退するようなことも珍しく無い。

統合リゾートの擁護者は統合リゾートが齎す大きな利益を豪語し、カジノはあくまでも多数あるエンターテイメント施設のほんの一つであり、ギャンブルに依存してしまうものは稀に起きる例外にすぎないと主張することがある。しかし、統合リゾートが生み出すギャンブル中毒者が例え一人だけだとしても、一人の人間を犠牲にすることは、あまりにも大きな責任が伴うことなのではないだろうか。

ギャンブラーの多くは、次々と生産されるキラキラした新しい遊具で遊ぶことに満足している。しかし、こうして種類が増え、ギャンブルがより自由になるということは、本来ならばギャンブルをすることに億劫な者でも、クローゼットから誘い出すことができる危険が生まれることになる。また、それよりも心配なのは、ギャンブルという行為が新たな社会基盤と化してしまう恐れだ。そしてこの新たな「普通」は、慢性的なギャンブル中毒者が自分の行動を正当化できる、都合の良い環境を作ることになってしまう。「自分は慢性的な中毒者ではなく、単なるカジノの常連客だ」といったように依存症を否定し、自傷的な行為を承認してしまうような世の中になりかねない。

アメリカで大ヒットしたテレビドラマシリーズ、「シェイムレス」でも、同じ種の非現実的な合理化の例をみる事ができる。あるエピソードで、作品の主人公である貧しい一家を常に危険に晒してしまうアル中の父に耐えきれず、自身もアルコールに頼るようになってしまった娘が、酔っ払った挙句、父に対した怒りの台詞で以下のようなものがある。

「あなたは酔っ払うと意地悪で嫌な奴になるけど、私は酔っ払うと陽気になるの。陽気な酔っ払いは楽しいわ。でも悪い酔っ払いは喧嘩早いだけ。陽気な酔っ払いは今を生きて、悪い酔っ払いは昨日のことばかり考える。大事なのはガスとブレーキ。さあ、飲み干して。どう?気分は良い?最高でしょ?なら一休みすれば、ドライバー・エイト。ペダルから足を外して、行くがまま行きましょ。お酒は実存的恐怖から気を逸らすために作られているの。人間は自分が必ず死ぬということを自覚している、唯一の生き物よ。そんな残酷な事実を知っているのに、私たち結構上手くやってると思わない?自分の絶対的な死を知りながらシラフで生きるのなんて想像できる?この家族の中で一番愉快で楽しんでるのはいつも私。なんでかって?私は理解してるからよ、シラフで生きるのは愚か者だけだって。」

この面白くも悲しいシーンは作中で非常に印象深いものとなっているのだが、彼女は重要な教訓の一つを忘れてしまっている。それは、アル中はアル中、「良いアル中」や「悪いアル中」など存在しないということだ。同様に、ギャンブルをする者に陽気で楽しい「良いギャンブラー」や、陰険で惨めな「悪いギャンブラー」などない。どんなギャンブラーも、皆同じ「ギャンブラー」なのだ。

統合リゾートに、経済的利益という名の「善」があるのは勿論事実であるのだが、また反対に、「悪」が存在することもまた事実だ。したがって、統合リゾート施設を展開する際には、社会にもたらす利益だけでなく、悪い面も十分に検討する必要がある。統合リゾートの「善」は、例え少数であれ、誰かを犠牲にできるほど素晴らしい者なのだろうか。

アメリカでは、カジノは一般文化にすっかり馴染んでおり、比較的うまく適応できている。アメリカ人にとってカジノに行くことは、レストランでディナーをしたり、夕方映画館へ行ったりするのとあまり変わらないのだ。ラスベガスでカジノに行くと、ほとんどの場合、出迎えてくれるのはお客さんの笑い声と楽しく明るい雰囲気だ。

それとは対照的に、マカオやシンガポールのカジノでは緊迫した空気が充満していて、ラスベガスの気楽さはどこにも感じることができない。お客さんは皆厳しい表情を浮かべ、一括千金というただ1つの目標のためにカジノへ訪れるのだ。全財産を賭けて目標を勝ち取ろうとしている人も少なくない。

この為、マカオの小さなカジノの総収益が、ラスベガス・ストリップにある複数のカジノ施設の収益を全て合わせた合計額の5倍以上だと聞いても、あまり驚くようなことではない。ここでは、誰もが絶壁から転落してしまう危険を賭けてでも、全てを勝ち取る「ゴッド・ギャンブラー」の登場人物、コー・チュンになりたいと思っているのだ。こうして西洋文化とアジアを比較すると、後者がギャンブルに対してより脆弱であり、対応しきれない危険があることがわかる。従って、アジアでの統合リゾート展開は、あくまでも最終手段としてのみ考慮されるべきだ。

羊の服を着た狼のように、側から見たら経済的に輝かしい統合リゾートであるが、このままカジノが増えてしまうと、アジアはいずれ、ギャンブル依存症の「イゼベル」になりかねない。その中毒性は、近年急速な成長を遂げたインターネット・ギャンブルの勢いをみれば一目瞭然だ。先ほど、記事の冒頭でブヨをギャンブラーと比較するような表現を使用したが、それはギャンブラーが「ゴッド・ギャンブラー」の様に憧れるような格好良いものでは無く、ブヨの様に愚かで、尊敬に値しないものだと言うことを伝えたかったからだ。(訳:小林絵里沙)

 

ダニエル・チェン氏は、国内トップクラスのIRアドバイザリー・グループGICJ(グローバル・IR・コンサルティング・ジャパン)の共同設立パートナーで、主要メンバーのIR業界経験は合わせて40年以上に及ぶ。過去には、セミノール・ハードロックで副理事長と、マレーシアのゲンティン・グループおよびラスベガスのカジノ・テクノロジー会社で上級職をつとめた経験もある。